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忘れないこと

2018/ 08/ 21
                 
 たかじんさんの本を読んだせいか、ひと足早く物故した仲間のことをひっきりなしに思い出す。死を扱った本は読むべきじゃない。



 10年も前に突然の電話で知らされたのがギターの塩次さんの死だった。ブルースギターの名手だった彼とは一時頻繁に交流があった。一度は富士山の見える場所に住みたいとか言い、大月の近くに住んでいたことがあった。何度か足を運んだ。部屋の中にはでっかいタンノイのスピーカーが鎮座していた。寸胴の郵便ポストが2つ並んでいるようなものだ。普通の部屋ではフルで鳴らすのもためらわれるような代物だった。「フチヤン、これ、いらへん?」といきなり言う。「えっ、こんな大きいものを、売りたいの?」「いや、ちゃうねん。持っていってくれればありがたいかな思うてな。邪魔やねん」
 当時、自宅で使っていたスペースは8畳ほどだったし、これを置くには狭過ぎる。以前、トランペットの我孫子さんの住んでいたところはウナギの寝床のような細長い部屋だったのだが、彼の家にもこれがあった。圧迫されるような大きさのこれを、小さい音で鳴らしたのでは値打ちが出ないと言い、かなりのボリュームで鳴らしたのだけど、アパート中に響き渡る音に近所迷惑だよなとこちらが心配するのをよそに、「なあに、いいんだよ。そんなものなんだから」と平然と言い放った彼にドギマギしてしまったことがあった。それを思い出して即座に「いやいや、とんでもない。だいたいセダンなどには乗っけられないし、トラック借りなきゃなんないし」と慌てて断った。
 娘さんから来た賀状の返事が訃報だった、むかし散々お世話になったバンマスの寶先さんとは夜店のレギュラーの他にも仕事をした。ある日呼ばれたのは旅館の狭い宴会場だった。6人編成のバンドが畳の間に並んだ。足元はフワフワするし落ち着かないことこの上なく、しかし寶先さんの売りでもあったヴァイブも不安定なまま畳の上に置かれていた。あの気まずい何曲かは忘れられない。
 ギターの松原氏はマツダのファミリアに乗っていた。大阪から同乗して東京を目指すことになり、奥さんとメンバー2人を伴って走り出した。当時の彼は猫を飼っていて、猫も一緒だった。この猫が興奮したのか我慢できなかったのか、いきなりおしっこを漏らしてしまったのだ。狭い車の中で嗅ぐねこのおしっこの臭いこと臭いこと。あまりの臭いに芳香剤のようなものをかけてしまったから、なお一層きつくなるばかり。6、7時間は拷問のようだった。
 ハーモニカの妹尾さんはパソコンの師匠のようだった。マッキントッシュのクラシック2を思い切って買ったのは30年も前のことだ。パソコン本体も小さいくせに20万ほどしたし、それにシーケンサーを走らせるためのソフトや周辺機器でかなりの物入りだった。妹尾さんは噂を聞きつけるや否やすぐやって来た。指導を受けた。しかし、彼は当時自分の子供にも教えていたらしく、教え方が子供の相手のような物言いになった。「あっ、それでね、この手ってマークをね、合わせるんだよ」などと言う。手ってマークって・・・。本人は気付いていないようだったから、笑いを必死でこらえて指導を受けた。
 久し振りに会ったギターの松木さんはライブハウスでのステージに上がる前に白い錠剤を差し出し、「おまえ、これ飲め。落ち着くから」と言う。何の疑いもなくサッサと飲んでステージに上がってから「あれっ、これはなんだ」と気付いた。フラフラするというか、立っているのもやっと。楽器など吹けるのかと不安になる状態だった。「あ、変なもの飲ませたな」と分かっても後の祭り。最初の音出しは息も絶え絶えでかなりヤバかった。それが証拠に客席にいた顔見知りのミュージシャンが表情を顰めるのが見えたのだ。しかし2曲目になると突然元気になって止まらなくなった。それからは会う度に「こいつはこないだオレのステージを目茶苦茶にしやがって」などと周りの人に言う。自分が唆したと言うか、陥れたくせに、などとは思っていても言ってはならなかった。あの錠剤は違法な薬物だったに違いないのだ。
 どうしてかは分からないが、どの人たちも、ステージ上の音楽のことなどは大して覚えていなくて、素顔の部分だけがやけに思い出される。もちろん誰もが音楽的に達人で多くの録音を残され、彼らの音は多くの人たちの記憶に残るなどと言うけれど、自分にとって彼らの音はすでに別物であって、彼らの日常の息遣いが聞こえそうな所作の数々が、まさに記憶に残っているのを実感するのだ。
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2018/ 08/ 18
                 
 4年ほど前に話題になった、やしきたかじんさんの発病から死に至るまでを書いた本が古本で200円で売られていた。東京では認知度が低いこの方は、関西では視聴率王の異名をとる大スターだった。僕も彼のアルバムで一曲ソロを吹いたことで知ったわけだが、少しは縁があったことになると思い買ってきた。この本は虚偽の箇所が多過ぎると物議を醸し、裁判沙汰になったりもした。本の中で無能な運転手でしかないと書かれた元マネージャー、遺言状で遺産を一銭たりとも残さないとされた前妻との間に生まれた娘。彼らは怒り狂った。百田さんはたかじんさんが死の3ヶ月前に結婚した妻の証言を元に本を書き上げた。メモ魔とも言えるたかじんさんの残した書き付けなども参考にしたという。だけど核となっているものは妻の証言だから面倒なことになった。彼女の過去の不行跡などもバッシングの対象になり、遺産目当てに近付いたとの憶測はいつの間にか真実のように語られる始末。ようするに残した遺産があまりにも莫大であったがために、それを二年前に知り合ったような若い女が相続するのが許し難いことだと人は思うわけだ。根幹にあるのは「いい思いしやがって許せねえ」ということだ。しかしながら彼女は二年に及ぶ闘病生活をそれはそれは親身になって支えた。病院関係者が口を揃えて言うのだから本当に違いない。遺産が目当てだったとしても天晴れで、そこに対しての疑念はない。そのような生臭い話は置いといて、ここで刮目するのは癌が身体を蝕んでいく経緯にある。



 彼の病状の悪化の経過は恐ろしいものがある。喉頭ガンから始まり、次から次へと体が変調を来していく。癌が見つかった時点でステージ3だったそうだから難しかった。手術は成功するものの副作用の強い抗がん剤の治療が始まる。転移は脇の下に現れる。最終的に腹膜播種(ふくまくはしゅ)という腹膜内に米粒ほどの癌が無数にできる、治療不能な症状が現れる。
 癌は体の細胞が分裂していく過程で作られる不良品だ。人の体には免疫系のシステムがあって、白血球の中のリンパ球には1割程度ナチュラルキラー細胞がある。これが癌細胞を駆逐するのだが、その力が低下することによって癌は威力を増す。ここらのメカニズムは解明されていない。老化が原因なのか、ストレスから来るものなのか、一切分かっていない。
 大阪の義姉は婦長クラスの看護師として長年務めてきたが、癌で亡くなった。姉は抗がん剤の治療を受けなかった。姉に言わせれば「毒を体に入れるようなものだから幾らかの延命効果はあっても辛いだけだし」ということだった。多くの患者を見てきた姉の言葉は重いものだった。癌が死に至る病であることは確かで、4人に一人が癌で亡くなるという。
 10年ほど前、行き付けの病院で血液検査を受けた。3日ほど経って、仕事から帰ると切羽詰まったような声で医者から留守電が入っていた。取り急ぎ病院に急行すると医者が深刻な顔をして言う。「PSA値がとても高いんですよ。これはね、前立腺癌の疑いがありますから明日新大久保の病院に行って下さい。紹介状は書いておきましたから」
 思わぬことに絶句した。空から黒いヴェールが降りてくる感じだ。その夜、大きな不安に襲われて中々寝つけるものではなかった。色んなことを考えた。ここで終わりかよ、ってなことだが、やり残したことが多過ぎるような気もしたし、こんなものだったのかなと諦観の境地になったりもした。次の日の朝、泌尿器科の待合室には誰もいなかった。暗い部屋で前夜からの続きが頭を駆け巡る。エコー検査もしたはずだ。診断は灰色だった。医者によれば、行き付けの病院に行ったのが熱を出した翌日というのが問題だという。この検査は熱を出した後にやっちゃいけないんだが、数値が通常4ぐらいのところが50だから焦っちゃうのも仕方ないかなどという。しかし、一度この数値が上がると落ち着くのに3、4ヶ月はかかるから、8月になったらまたいらっしゃいということになった。一抹の不安の残したまま4ヶ月を過ごすことになってしまったのだ。4ヶ月後、「もう来ないで下さい」と言われたときの嬉しかったこと、病院を出て見上げた空まで「おまえ、よかったなあ」と言われた気がしたのだ。
 それからは前にも増して音楽に勤しむようになりました、ってこともないのだけど、癌細胞を駆逐するナチュラルキラー細胞を増やすにはストレスを溜めず、大いに笑い泣くこと、とにかく夢中になれることをやるに限るらしい。
                 
        

帰省

2018/ 08/ 15
                 
 音楽制作にのめり込むと日付や時間の感覚というものが変調を来すらしく、今日もスタジオの予約を忘れていて行き損なった。どうしてか分からないが、今日を土曜日だと思っていたのだ。それで頭の中では明日の日曜日に予約していると思い込んでいた。この数日シーケンサーのデータに取り憑かれたように作業していた所為だと思われる。ま、決して認知症とかではない。念のため。
 さて、実はお盆だ。帰省ラッシュだ。実家は九州にあったから車でのラッシュなど知らないといいたいところだが、一度だけ大変な目にあったことがある。湘南の平塚に住んでいた義姉を訪ねたのがその日だった。15日、下りの東名はガラガラですんなりと行けたのだが、帰りがアウトだった。聞きしに勝るラッシュだった。新宿に辿り着くのに何時間もかかってしまった。
 新幹線もとんでもないことになる。指定席を買っていれば問題ないのだろうが、自由席で移動しようと考える人は多い。確か自由席は4車両ほどしか設定されていないはずだが、客が殺到して通勤ラッシュ並になっていた。今もそうなのかは知らないが、乗車率200パーセントとかいった類いだ。指定席を買っていたものにとっては「そんなに乗せるなよ」と言いたいところだが乗せるのだ、これが。



 あれが自分も帰省した帰りなのか仕事の帰りなのかは覚えていないのだが、東京行きの新幹線の指定席に乗っていた。ちょうど今の時期だ。大阪で後から後から乗車してくる客は自由席の車両だけでなく、グリーン車もお構いなしにほとんど全ての車両の通路にまで押し寄せていた。もうトイレに行くのだって無理な状況だ。座っている人たちは誰だって快く思っているはずもなく、しかし迷惑そうな表情は押し隠して余計なトラブルを避ける心積もりだけを守っていた。通路に立つ人達は失意と後悔と疲れでヘトヘトだったに違いなく、でも「仕方ないじゃないか」という居直りで無理にでも毅然とした風を装っていた。一人一人の心の中を吹き出しで描写することができるのならポジティブなものは無く、ほとんどがネガティブでおぞましいまでに険悪な空間だったと思われる。誰もが苛立ち、そのはけ口は東京に着くまで得られなかった。座っている席のそばに母親に連れられた小さな子供がいた。こどもに3時間も立っていろというのも酷な話だ。替わってあげようかと思わないでもなかったが、しばらくすると子供がぐずり始めた。「ねえ、いつ着くの?」と泣きそうな声で言う。苛立ちが限界に近かった母親が鬼のような形相で子供を睨みつけるのが見えた。ああ、嫌なもの見ちゃったなあってな感じだ。瞬間、替わってあげようかと思う気持ちは彼方に消し飛んだ。げんこでゴツッとやられたようだった。こどもは偉かった。泣かなかった。すぐそばの険悪な空気を感じつつ3時間をやり過ごすことになった。こどもは途中でしゃがみ込んだりしてなんとか頑張っていた。あれは乗車率200パーセントではなく、苛立ち不快率200パーセントとすべきだと思う。
                 
        

夏も終わりが近い

2018/ 08/ 12
                 
 JAの野菜直売所に行くと地場産のトマトが姿を消し、北海道産のものが並んでいた。夕刻には虫の声を聞いたし、まだ暑いとはいえ夏も終盤に差し掛かったわけだ。テレビでは高校野球が中継される。これが終わるといよいよ夏も終わりかと毎年思う。その高校野球だが、いつからこのような形態になったんだろう。強豪校と呼ばれるものはすべて地元の選手が活躍するわけでなく、全国各地から呼び集められた球児で成り立っているという。野球をやる子にとっては甲子園は憧れの舞台で、自分をアピールできる絶好の場であるからそのシステムはあっという間に浸透したらしい。で、プロ野球選手の大半が甲子園組だったりして、いわば甲子園はプロ養成のための職業訓練学校の体を為している。もちろん見始めると面白いのだが、昔ほどは中継を見なくなったのは、そのようなシステムがなんとなく胡散臭く思えるようになったことによる。高野連が画策した事業に見えて興ざめしたりするのだ。

                 
        

平手はいいけどゲンコツはダメ

2018/ 08/ 09
                 
 終戦の日が近い。こどものころから、大人たちがこの日を特別なものとして式典を開くのを見てきた。当時の大人たちにとって戦争はまだ生々しい記憶で、それはそれは色んな話を聞かされた。特攻のこと、沖縄決戦のこと、そして何より原爆のこと。父は徴兵されたが前線に出ることはなく、しかしながら兵舎で上官から懲罰を受ける別の部屋の声を聞いたという。それはそれで恐ろしい出来事だったと話してくれた。
 さてヒロシマとナガサキだ。投下された日は慰霊の式典が行なわれる。何度も何度も目にすることになったこの式典を見て、正直なところ、どのように反応すればいいのか分からない。「過ちは繰り返しませんから」と言っても、誰の過ちなんだろうとぼんやり考える。暴走した軍部が為した結果だということだろうか。無差別に一般人を巻き込んだアメリカの仕業のことだろうか。兵を相手に武器を使ったのではなく民間人を標的にした爆弾であれば、それはテロに違いない。アメリカは戦争を終結に導くためだと正当化するが、そのような弁解が通るはずもない。日本は物資も底をつき、何れ降伏するより手はなかった。そこで、アメリカは新型爆弾を試してみたくて仕方がなかったというのが真実ではないかと思われる。目標が地形的に効果が確認できる場所に設定されたという説も頷ける。両市合わせて何十万人もの人が命を落とした。効果は凄まじいものだったわけだ。(写真は投下直後のヒロシマ)



 それで、大人は誰もそんなことを言わないのだけど、こどものころから不思議に思っていたことがある。国と国が衝突して殺し合う戦争にルールがあるのかってなことだ。鉄砲はいいけど、大量に虐殺できる武器を禁じるべきだという考え方だ。喧嘩で殴るのはいいけど殺めてはいけないというのなら分かる。しかし戦争は殺し合いだ。そこへ持ってきてルールを決めましょうというのが、人間が愚かな存在だという証左のようなものだ。かくて幾つかの国が使えもしない核爆弾を納戸に仕舞い、いつだって出すぞと威嚇する対外政策に奔走するところなどバカにしか見えない。そういった意味では、毎年の原爆慰霊式典というものは核爆弾の恐ろしさを発信しているわけだから、その都度核保有国のお偉方をゾッとさせているに違いないと想像して納得するわけだ。