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あたふた

2018/ 11/ 16
                 


 昨夜はブルースアレーでのライブ。リハーサルの時点で予想してはいたが、だいたい空回りして20点ほどの出来に肩を落とした。ようするに自分がこうなれば最高だなと期待していた部分がことごとく外れて、ついつい力んでしまう展開になった。ま、自分の所為なんだが、集中力が途切れがちになるのも頂けないわけだ。ライブでの演奏はエキサイトする部分も必要だが、それ以上に繊細な部分というものが欠かせず、むしろ細やかなサウンド展開がすべてを決めると言ってもよい。それが欠如すると音楽としては機能しなくなる。曲によってはピアノとヴォーカル、それにサックスのトリオ編成でも良かったななどと思ったりもしたが、ま、終わってしまってからでは後の祭り。やり直しのきかないライブは大変でござんすってなことだった。
 しかし、目黒駅周辺というものは駐車場が極端に少なくなっていて焦った。10年ほど界隈に行くことはなかったが、久しぶりに行ってみると、記憶にあったコインパーキングはほとんどがビルに変わっていたし、一日の上限価格が最低でも3000円で、中には15分300円というのもあった。一時の六本木に迫る勢いになっている。そんなこんなで店に入る頃にはすでに疲れていたのも良くなかったなあってな日だったのだ。はあー。
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訃報が入って中断する

2018/ 11/ 15
                 
 リハーサルの翌日、指の状態を診てもらうために病院に行った。症状は芳しくなかったらしく、医者は「うーん・・」と言って表情を曇らせる。前回の話では風呂などはそのまま入ってもかまわないし、バンドエイドとかで包んでしまうと蒸れたりして良くないからこのままでなどと言っていたのが、思いきり変わった。やはり患部は膿んでいて、大きなピンセット状のものでグイと押さえられた。思わず跳び上がった。ただでさえ痛いのに、そこを押されちゃかなわない。ズッキーンと痛みが走った。見ていた看護師も気の毒そうな顔をする。さらに、ここの先が膿んでいるから出しちゃいましょう、と言って先の尖ったものを出してきた。覚悟するしかない。後から看護師が肩を押さえている、これは相当来るなと歯を食いしばっていたのだが、案外簡単に穴は空いたらしい。しかし、そこをまたグイと押される。イテテテと言う間もなく白い膿が出てきた。ゲッってなものだ。「これで痛みは和らぐでしょう」などと言いガーゼと包帯と指サックで包まれてしまった。大層なことになったわけで、箸すら持てない状態になった。外科医はサド入っているなあと思った。
 少し落ち着いてきたところで、明日の譜面を完成するべくあたふたと作業を始めて、先ほどやっと終わった。ま、本番になると譜面などあまり見ていなかったりもするが、この作業の過程が大事なのだ。



 それで印刷を始めようとしていると、電話が入ってピアノの佐山雅弘が死んだという。ショックは大きい。近年の付き合いはなかったが、数十年前のピットイン朝の部時代のバンドのメンバーだったし、思い出は尽きない。彼のことは後日語ることにする・・・・・。
                 
        

2018/ 11/ 10
                 


 渋谷で来週のライブのためのリハーサル。スタジオは渋谷駅から246号線を上がった場所にあるわけだが、下の駐車場から歩くのだってかなり疲れた。最初は渋谷辺りは駐車場見つけるのが大変だし、電車で来ようかと思っていたわけだが、楽器を持って駅から歩いたのでは、疲れ果てて一時間ほどは使い物にならなかったに違いない。だがしかし、楽器を演奏するのは問題ないが、この行き帰りに使う労力というものがバカにならず、帰宅して倒れ込む案配。30代40代と歌伴は仕事の大半を占めるジャンルだった。スタジオワークだってほとんどが歌手のレコーディングだったから、歌伴はおろそかにできるものではない。ま、フォートップスの歌伴の仕事の際は「歌伴人生ここに極まれり」などと思ったほどだし、ちょうど聴きに来ていたギターの山岸にそれを言うと大笑いされた。そんなこんなで今日も曲が始まった途端「これだよな」とテンションが上がってしまったのだ。
 だが、好事魔多し。3日ほど前から右手薬指が大変なことになっているのだ。

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 爪周囲炎とか言い、要するに深爪やささくれから菌が入って炎症を起こす厄介な症状。今までも何度かこのような症状になったことはあっていつの間にか治っていたが、今回は重かったのだ。腹側が化膿するものは「ひょう疽」と呼ばれ、ほっておくと骨にまで害が及び、とんでもないことになるらしい。外傷ではないから抗生物質で押さえるしかない。最初は痛みを抑えるために外傷薬を塗っていたりしたのだからお目出度い。で、今日の昼間は痛みがピークに近く中指がずっとチクチクしていたのだ。ヒトの体というものは何が欠けても不自由になるように出来ていて、指一本だって大変なのだ。第一、箸が持てない。中指の真ん中辺りを使って何とか持つことは出きるが、上手に持てていないから麺などは掬えなくて、ポロポロと落ちていく。鉛筆も不細工な持ち方で書くのだが、採譜した譜面は自分だけにしか分からない判じ物のようになってしまった。なんだか、歳のせいもあるのだが、病院のカードが年毎に増えていく。
                 
        

こどものために

2018/ 11/ 08
                 


 今年もまたおっちゃんの庭に変形の菊が咲いた。ま、菊と言うよりゴッホの向日葵だ。毎年、春は薔薇、夏は朝顔というように、おっちゃんの庭で季節を感じることになっている。

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 昨夜、車の中で久々にラジオドラマというものを聞いた。途中からで内容はさっぱり分からなかったが、あー、あの時代だと郷愁を誘われた。小学生のころの数年間、ラジオドラマを楽しみにしていた。覚えているのは「赤胴鈴之助」「不思議なパイプ」、それにアイヌのことを知る切っ掛けになった「コタンの口笛」などだ。やがてテレビの時代に移り、「月光仮面」が子供たちの圧倒的な支持を受けることになるが、ラジオドラマがテレビに比べて劣っていたというものではない。ラジオドラマのキャスト、当時は声優などという言葉はなかったような気がするが、彼らは大したものだった。僕らはそれぞれに映像を思い浮かべながら聞き入った。もちろん漫画原作の赤胴鈴之助だったが、子供たちの数だけの赤胴鈴之助がそこら中にいたに違いない。テレビドラマも実写版からアニメへと移行していった。「鉄腕アトム」がその先鞭をつけたはずだ。「エイトマン」というものもあった。テーマ曲を歌った克巳しげるという歌手が10年後に殺人を犯して逮捕されて、エイトマンのテーマ曲は悪い連想を導くものになった。
 テレビがカラーになる頃、もっぱら受けていたのは人形劇の「ひょっこりひょうたん島」だった。熊倉一雄や藤村有弘などという達者な方たちが吹き替え担当で何とも魅力のある番組として広く知られていた。しかしながら、僕らはこども向けの番組からは卒業する年齢になっていた。ずいぶん後になって、こちらが30代に達した頃、むかしのテレビ番組がテレビ開局何十周年とかで再放送された。その中に「月光仮面」もあった。月光仮面の悪役として仮面をかぶった「サタンの爪」という怖い役柄があった。見ていた僕らは怖気を震ったものだったが、大人になって見るサタンの爪の手は布製のグローブのような粗末なものだったし、爪に至っては銀紙が貼られた情けないものだった。しかし、そのようなものを僕らは怖がって見ていたわけだ。大人は何とチャチなものかと思っていたかも知れないが、僕らは画面に出てくるものをちゃんと補正しながら見ていたわけだ。こどもの想像力は大したものなのだ。悲しいことに僕らはある日その想像力を失うらしい。

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横浜たそがれ

2018/ 11/ 04
                 
 昨日、歌手の五木ひろしさんが文化勲章の栄誉に輝いたとかで、彼のヒット曲「横浜たそがれ」のことが語られていた。歌詞冒頭に出てくる「ホテルの小部屋」のモデルが当時お洒落なホテルとして知られていた「バンドホテル」だったそうだ。昔のことで、バンドーホテルと覚えていたがバンドだったらしい。横浜で半年ほど仕事をしたのは22、3才のころだ。キャバレーバンドを渡り歩くのにも少々飽きていて、一緒の店で仕事をしていたドラムの林田さんが、横浜でバンドを組むのだけど手伝わないかと声をかけてくれたのに乗ったのだ。よく聞けば歌い手が入った、早い話がコーラスバンドだというのに些かの抵抗はあったけど、それも面白いかも知れないってんで新しい流れに乗ってみることにした。もちろん「横浜たそがれ」も「傷だらけの人生」もやったけど、サンタナの「オエ・コモヴァ」も「ブラックマジックウーマン」もやったし、ごった煮的レパートリーで横浜での活動は始まった。バンマスの知り合いのクラブが拠点だったが、深夜はあちこちの違う店で朝までの仕事をした。今だったら倒れるところだが、なにせ若いから平気だったし、朝の東横線で渋谷に向かう毎日だった。



 バンドホテルの最上階に「シェルルーム」というクラブがあって、どういう経緯か、そこのバンドのオーディションを受けることになった。1929年開業の老舗中の老舗の格調高いホテルで敷居は相当高く、1968年にオープンしたクラブのオーディションに受かるとは思えなかったが、ダメ元興味半分で僕らは参加した。いくつものバンドが来ていた。その中で笑ったのはゴテ辺さんのバンドだった。当時渡辺という名のプレイヤーは「XXなべ」と呼ばれる方が何人もいらっしゃった。トランペットのゴテ辺さんは、一度聞いたら忘れないあだ名で、どうやら不平不満の多い方らしかった。恰幅のいい体格のゴテ辺さんは演奏前のバンドメンバーに向かって仰った。「さあ、どれだけ大きい音が出るか、やってみよう」受かる気があるとは思えなかった。それで、ドッカーンと大きな音で演奏して終わった。その頃、バンドのオーディションが新しく開店するクラブなどで行なわれることは度々あった。当時は知らなかったが、多くの場合バンドはすでに決まっているらしく、しかしながら多くの事務所の顔を立てるためにオーディションという形を取り、それは店のお披露目的な役割も担っていたらしい。ゴテ辺さんはそれを知っていたはずで、「馬鹿馬鹿しくてやってらんねえや」ということだったわけだ。
 横浜での仕事は色んな意味で刺激に満ちていた。深夜の仕事の店で彫師という人に会ったのも驚きだった。その筋の人たちの刺青を彫る人だ。バンマスが知り合った女性に冗談半分でオカマに興味があるから紹介しろと言ったら、店にやってきたのはどう見てもオジさんだった。それもプロらしく着流しでさらりと客席に現れた。焦ったバンマスは逃げ腰だったが、テーブルで脂汗を流しながら取り繕う様を僕らは楽屋から見ていて腹をよじって笑った。歌い手の元ヤンキーのジローさんは横浜の人で、もちろん街のことは詳しかった。中華街の店でも、ここは美味しいと連れていってくれた店の焼きそばはそれまで食べたことのない美味しさだった。焼きそばには苦い思い出もあった。一週間ほど仕事をした桜木町駅前のホテルのラウンジでは、毎夜のように食事が供されたが、一週間同じ焼きそばだった。犬や猫じゃあるまいしと僕らは憤然とした。それで食事はいらないと言うようになったのだが、それこそが店の望んだことらしかった。映画「天国と地獄」の横浜の酒場シーンのモデルとなった根岸屋にも連れていってくれた。朝方で客はほとんどいなかったが、青とも緑ともつかない妙な色の昔の椅子が並んでいるのが印象に残っただけで、結局は何も頂かずにすぐに出た。仕事後の朝に行った本牧の町は平ぺったい趣で何か特別という感じではなかったが、ジローさんが開けた重い扉の中は薄暗い中に大勢の人の姿があった。いわゆるバーだが、背の高いテーブルを囲んで立っているのはほとんど外人だった。米兵が集う場所だったらしい。外は明るいというのにそこだけは夜だった。まるでアメリカ映画の一シーンに入り込んだように錯覚した。

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 極め付けはホームページの「70年代」にも書いたが、夏の茅ヶ崎だった。朝まで仕事をしての帰り、ジローさんが「今から海行こうぜ」と言い出し、錠剤でラリった後のみんなは何となく勢いで付いて行ってしまった。海に着いたのは7時前だったから、当然人はいない。しばらくは海だ海だと盛り上がっていたが、やがてみんなは深い眠りについた。目が覚めたときの驚きは尋常ではなかった。朝は海岸も海も暗い土色と鉛色だったものが、海岸は眩いほどに輝いていたし、辺り一面が色彩に溢れていた。夏休み期間であることなど僕らは忘れていたのだ。僕らは海岸のど真ん中に、海水浴客に遠巻きに避けられるようにして倒れていたのだ。普通の人たちの日常に、夜の世界で生きる人間が突然紛れ込んだようなものだった。僕らは這う這うの体で海岸から逃げ出したのだけど、その辺りからこんなことしている場合じゃないなと思うようになった。しかしながら、今にしてみれば横浜での半年ほどはある種の青春というものを経験していたのではないかと思う。大学進学もせずに18才で夜の世界に入り、大学のキャンパスも知ることはなく楽屋とステージを行ったり来たりした自分にとってはとてつもなく刺激的な毎日だったのだ。バンドホテルも根岸屋もなくなり、バンドホテルの名を聞いた瞬間、70年代初頭の横浜の息吹が脳裏に蘇ったってわけだ。