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バジル

2019/ 04/ 21
                 
 今年もバジルを植えた。もういいかと毎年思ったりするが、かなり立派な苗を見つけてつい手が出た。



 ついでにというか他のハーブ類も植えた。それぞれの使い道など一つか二つの料理でしか知らないのだけど、タイムなどはひき肉料理に使うと実に香ばしくレストランの味になる。

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 パセリとローズマリーも参加させた。

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 むかし日本語の上手なイタリア人が周りにいて、スパゲティのことを喜々として語るを聞いた。「なんてったてさ、茹で立てのスパゲティにバターを放り込んでね、後はシソとパセリのみじん切りを加えて混ぜるだけで美味しいんだよ、やってみ」。ようするにバジルスパゲティの代わりなんだが、当時はバジルなど見かけることもなかったから、バジルスパゲティは未知の領域だった。しかしながらイタリア人が言うのだからそれも有りなんだろうと度々食した。それがお洒落なことだったかどうかはさて置き、若い頃というものは西洋かぶれっぽいことをやってみたくなるものなのだ。サイフォンで淹れるコーヒーが本格的だと聞けば、アルコールランプと器具一式を揃え、ボコボコと音をたてながらコーヒーが出来上がるの今か今かと凝視した。味の違いが分かるかといえば、そんなことはどうでも良く、サイフォンでコーヒーを淹れていることが大事だったのだ。そんな風だから、布製のフィルターを洗うことなどが面倒になり、その内サイフォンブームは静かに終わりを告げた。これだったらいいだろうとドリップ式に移行したが、ま、味音痴なのか、どれも大した変わりがあるとは思えないまま、いつの間にかメリタのコーヒーメーカーがそれに取って代わり定着することになった。以前はスパゲティの有名メーカーとしてはブイトーニが筆頭だった。オーマイとかママーでないことが重要だった。ま、これも味に大差があるわけではないけど、そこの所を押さえておかないと通であるような顔はできなかった。無理しちゃって的な若いころの思い出は妙に頑張っているところが可笑しい。

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2019/ 04/ 20
                 
 雑然とした写真だけど、小さな花の下にはこぼれ落ちてきた桜の花びらが敷き詰められている。みんなで「春でございます」と言っているようにも見える。



 池袋の暴走事故は痛ましい。運転していた爺さんはアクセルが戻らなかったなどと言っているが、どうしてブレーキを踏まなかったんだという疑問が誰にでも湧く。足を悪くして歩行も危うかったらしいから、本人はアクセルを緩めているつもりでも、実は踏みっぱなしの状態になっていたと考えるのが妥当だ。足の感覚がないわけだからブレーキの踏みようもなかったことになる。それか、ブレーキを踏んでいるつもりでアクセルから足が離れていなかった。ま、憶測だが、体の異変に気付かなかったというか、認めたくない気持ちは何となく察することも出来るわけだ。本人もパニックだっただろうけど、同乗していた奥さんにとっては人生の最終コーナーで見た有り得べからざる恐ろしい悪夢だっただろう。かく言うこちらも運転はするわけだが、歳を取って若い頃は考えられないほど慎重になった。第一スピードを出したくない。高速道路で3車線あれば、ほぼ中央の車線をのんびり走る。そうする方が平和な気分になれるのだ。むかし東北道で速度超過、それも49キロオーバーで、裁判所の係官に「これね、50キロオーバーだと反則金がね、12万円になるんですよ。ま、それでも今回は7万円なんだけどね」とお叱りを受けたことなど嘘のようだ。昨夜は肝を潰すような事があった。暗い道路で横断歩道上に何か光る物体が見えた。車がこちらを向いているようにも見えたから「おっ、逆走か」と思い、避けようと反対車線にハンドルを切ったときに見えたのは横断歩道上に停まっている大きいバイクだった。道路を塞ぐような停め方だから思わず急ブレーキ。「なんだよ、なんだよ」ってなもので、離れた左の歩道上にいるバイクの兄ちゃんの姿を確認した。転倒して起こした直後だったのかどうか分からないが「人騒がせな」と腹が立った。それにしてもバイクから離れて何をやっていたんだろうと疑問が残った。たぶん、事故の多くはあり得ないシチュエーションで起きるに違いない。昨夜の場合でも、人であれば背丈で確認できるが、バイクは案外低いし横向きのバイクがいるなどとは誰も思わない。何か分からない物体に見えるのだ。咄嗟の判断で回避できたが、この瞬間の判断力が衰えれば対処は不可能になるだろう。怖いよなあなどと思いつつ帰宅して池袋の事故を知った。さらに怖いよなあになった。
                 
        

音楽家

2019/ 04/ 19
                 
 昨夜は横浜でのライブで、山あり谷ありの展開が面白く、吹ける楽しさは充分に味わったわけだが、終わってから少々面倒な事になった。ピアニストの大石氏は全体のルーズなサウンド傾向というものに業を煮やし、次からはデュオでやりたいと言い出した。原因はドラムの音量がでかくなり過ぎて繊細な部分が消し飛んだこと、そもそもリズムの捉え方の違いに疑問を感じていたことなどだ。ま、それは分り過ぎるほど分かる。しかしながら聴いてくれる人たちがそこまで聴き分けているはずもない。もちろん、より良くサウンドするものを聴いて比較すれば誰にだって分かるが、そこが難しいところだ。トランペット奏者は幾つかの曲でソロに困っている様子が見てとれた。収拾がつかないそういったソロというものは長くなる。こういった展開は奏者に間々起きる。ようするに聞こえてないものを演奏しようとするのだ。見えているものだけを拾って演奏するという行為は、これがなかなか難しく、何とか格好つけなきゃという焦りも加わってぬかるみに落ちたりする。ま、駆け出しの若いころに散々経験した流れだ。アドリブのソロをすることに際しては、相当な訓練を必要とすることは当たり前のことだ。その訓練も様々なアプローチがある。誰か有名な人のソロの断片を覚えて再構築するとか、ただただ教則本的な訓練を続けるとか、知っていること以上の演奏を望まない流れとか。たゆまぬ訓練は和声の流れ、いわゆるコードの説明をする展開になりがちだ。いかに巧くコードの説明するかに汲々とするというのが案外多い。それはクールな展開ではない。実のところそのようなソロは面白くない。魅力的なソロは和声の上部に聞こえる音から作られるメロディだ。ある楽曲の全てのコードの流れを16分音符で表現する訓練、それはメカニカルなもので実際のソロに役に立つものかどうかはさて置き、手も足も出ない状況では先はない。本当はそこが出発点でもあって、そこから創造という大きな壁に向かって歩を進めることになる。そこからが楽しいことなのだ。それが見えて初めて音楽する楽しさが分かってくるわけだ。それは引っ叩くことだけで演奏を完遂しようとするドラムの場合も同じことで、全体の流れを聴かずただただ打音を送り続ける場合は、音楽的な展開からはほど遠い。上手に叩くことが目的ではなく、音楽的な演奏家を目指すことが大切なのだ。もちろん、そのような立ち位置に身を置くには楽器のマスターがもっとも重要で欠かせない。そういう自分だってまだまだ成長過程にあるわけだから大したことは言えないのだが、導くことも頑張らねばと考える。むかし、60年代に来日したアート・ブレイキーのバンドのサックス奏者ウェイン・ショーターについて、それを聴いた武満徹さんはこう仰った。「彼は・・・・素晴らしい音楽家だったなあ」
                 
        

前々々夜

2019/ 04/ 15
                 


 ありし日の桜の花だが、葉桜もなかなか情緒があって好ましい。

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 木曜日は久々のライブということで緊張したり焦ったり。トランペット奏者は以前使った譜面が見当たらないと慌てた様子で「取りに行きますから」と電話してきた。即郵送した。大丈夫かいなってなものだ。しかしながらライブが近付くと必ずと言っていいほど新しい曲のアイデアが湧く。いつもマジですと言いつつも、何か別のスイッチが入るらしい。以前はライブ当日に新曲を持って行ったりして大変だった。ほとんど徹夜で曲を書き上げ、朝方にファックスで譜面を送ったりした。メンバーも大変だが、やらせる方だって神経を使うのだ。あれこれ説明もしなければいけないし、かなりの集中力を必要とするのだ。歳を取ってそこらは大分鷹揚になった。っつーか、余計な神経を使う余裕がなくなったとも言える。ただでさえ3ヶ月も空くと大変だから、ま、それでいいのだ。ここ最近はオリジナル楽曲だけで通すということをしなくなった。それは決して手抜きではなく、自分としては新しい段階に入ったと思っている。オリジナルを散々やって来たから見えるものもあるってなことだ。案外な曲をやるライブ、横浜方面の方は是非足をお運びください。
                 
        

入学式

2019/ 04/ 12
                 


 そろそろ桜も見納めになったらしい。曇天で景観は今一だが、この坂の通りを桜通りとか言う。あちこちにそのような名称はあるようだが、ま、桜通りで間違いはない。

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 小学校の入学式は月曜日だと聞いた。そうかピカピカの一年生かと遠い記憶を辿る。当時は姫路にいて、市立野里小学校に入学した。今の野里小学校を画像検索すると記憶とは程遠い鉄筋の校舎が出てくる。当たり前のことだが、木造の校舎に通った者にとっては別のものだ。小学校二年を終了するまでここに通った。記憶は断片的だが、入学式の日に一人ずつ栞のようなものを好きに選んで受け取ったことを覚えているし、女の先生の名が祝先生だったことも覚えている。この小学校の変わったところは元旦に登校したことだ。おばさんの作った雑煮などを食べて学校に行った。学校では全員校庭に並んで校長の訓辞を聞いただけのような気がする。歳を食ったせいか、あの頃のことを思い出すと、入学式のことも含め悲しいほどに切なく懐かしい。商売に失敗し、病も抱えていた父は困った揚げ句に姫路の姉の元へ、年端の行かぬ弟だけ残して3年間姉弟を預けたわけだ。はるばる九州から姫路に辿り着いた日の夜、大声で泣き、その自分の声で目が覚めたことを覚えている。寂しいなどとという自覚などなかったし、それは自分でも驚くような出来事だった。たぶん精一杯強がってはいたが、根のところでは不安に押し潰されそうになっていたに違いない。そこで暮らすのだと言われれば順応するしかなく、子供の適応力で慣れていったのだが、底には不安が隣り合わせだったような気もする。実際、入学式の日など、母に送るために撮ってもらった写真が残っているのだが、どれも表情は明るいとは言えない。おばさんはご主人への気兼ねもあっただろうし、何かと手伝いを言いつけたから好きにはなれなかったが、おじさんは他人様の子供を預かっているという責任を感じていらっしゃるようにも見えていた。この家で暮らした時期に覚えている出来事が人工衛星だ。1957年10月4日に打ち上げられた人工衛星「スプートニク1号」は人類最初の衛星だった。朝食の卓袱台の前に座るとき、突然「じんこうえいせい」という言葉が浮かんだ。何それ、ってなものだ。すると新聞を広げた次兄が「おおー、人工衛星か」と言ったのを聞き、「今言おうと思ったのに」と発言すると、皆に「何を言ってんだか」と大笑いされた。しかし、知っている筈もないあの言葉が浮かんだことは確かで、予知能力とか騒ぐものでもないが、今でも不思議で仕方ない。
 九州に戻ったのも桜の季節だった。小学3年生の始業式に間に合うように帰った。帰ってからの一年ほどは慣れるための試運転期間だった。言葉も違うし、なかなか馴染めずいたが、事情を知っていたらしき担任の原菊江先生が何かと気を使ってくださったのを覚えている。子供は自分の心の有り様を説明できない。佐賀の駅に3年ぶりに降り立った時、再会を待ち望んでいた母が出迎えた。ドラマでは「母さん」とか何とか言って抱きついたりするのだろうが、そうではなかった。母と目を合わすことが出来なかった。俯いて地面を睨んで言葉も出なかった。姫路の遊び友達などと別れることは辛かったが、だからと言って預ける選択をした母に恨みなど全くなかった。しかし、出迎えた母の顔は他人のようにしか見えなかった。後々折りに触れてその時のことを母は言ったが、自分でも分からないものを説明できるものでなかった。それは心の隅にトゲのように残っていた。ようするに幼くして親離れしてしまったような気もする。3年間の内に独立独歩で生きていくというような気持ちが育まれていたのかも知れない。そこからの生活の中で、もちろん我が侭は言ったりしたが、母にもたれかかるように甘えたという記憶はない。どこかで母にも父にも気遣いをしつつ日を送っていたような気がする。もちろんそのような事を母に言うわけもないが、どこかに申し訳なさが残っているのだ。高校卒業と共に家を飛び出したのは、そのような経緯と無関係とは言えない。